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ガイディングスター株式会社は家族の介護による離職を防ぐことを専門とするプラス転換Laboを展開しております。

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採用情報【実話】会社員に突然訪れた悲劇

これからご紹介するのは、“あること”をきっかけに、不幸のドン底にたたき落とされた人たちの、実際にあった話しです。

1人は47歳、会社では重要な役職に就いていた47歳の男性。
もう1人は最近結婚し、もうじき子どもが生まれるという26歳の男性。会社では部署のリーダーを任され、これから羽ばたくかのように思えました。

そのふたりに訪れた”あること”とは、、、
「身内の介護」でした。

47歳。親の介護は突然に

私は25歳で結婚し、子供が2人います。1人は大学生。1人は高校2年生。
父を2年前に癌で亡くし、母は一人で暮らしていました。
母はもともとあまり出歩く人ではなく、主に家にいます。
父が亡くなってからは、少し元気がないようでした。
時々電話で話しをします。
子どもが大きくなった最近は、実家に帰る頻度は下がっていました。
電話の会話が少しかみ合わない時があるけれど、以前からそうだったような気もして、あまり気に留めていませんでした。
あるとき突然、病院から電話で、母が道で転倒して怪我をしたと連絡がありました。
命に別状はありませんが、「大腿骨頸部骨折」とのことでした。
3ヶ月ほど入院してリハビリして自宅に戻りましたが、歩きが不安定なため、介護が必要と言われました。
相談しながら手続きをし、要介護2と診断され、ケアマネージャーがつきました。
ケアマネージャーからは、「認知症も進んでいる」と言われました。
愕然としましたが、何も分らなくなってきているのかと思ったら、私のことは覚えていたのでホッとしました。
ケアマネージャーから「出来るだけ毎日家に来てあげて欲しい」と言われ、仕事帰りに母のところに寄ったり、妻に頼んで、パートが休みの日に行って貰うことにしました。

変わってしまった母親の姿。離職へ。

ところが、仕事帰りに母の家に入るとすごい臭いがするんです。
調べてみると、トイレや廊下の壁に便がいっぱい付いていたんです。
母の寝室にいくと、母が便まみれの布団で寝ています。
頭が真っ白になりながら、母を起こし、 「これ何!?何があったの!?」と叫びました。
すると母は 「知らない!私はやってない!」と泣き叫びました。
ショックを受けて、ケアマネージャーに相談しました。
このままでは母はどうなってしまうのか、、、怖いし、心配でした。
夜の介護サービスは金額が高いと言われましたが、サービスを受けることを決めました。
しかし、母が、家に誰かが入るのを嫌って絶対に納得してくれません。
ケアマネージャーも困ってしまい、「一番良いのは、誰か一緒に暮らすこと」と言われたので、私の家に母を引き取ることになりました。
そこからはたいへんでした。
母は毎日、夜中になるとトイレに起きていこうとします。
でも、骨折後でフラフラ危なっかしいので1人では行かせられません。
私は毎晩、2時間おきくらいにトイレに付いていかなければならず、全く眠れなくなってしまいました。
介護が始まって僅か1ヶ月。
母のためには仕事をやめるしかないと考え、私は職場に、退職願を出しました。

地獄の介護を終えて抜け殻に

退職しても「介護がちょっと落着いたら、介護士ながらできる時短の仕事を探せばいい」と考えていました。
でも、そんな考えは甘かったです。
2時間おきのトイレのつきそいをしても漏らす。
同じことを何度言ってもわからなくなる。
ちょっとしたことを「これやって」と言っても出来ない時も多く「何でこんなことも出来ないのか」と、情けなくなって母に怒鳴ってしまいます。
子ども達からは「お父さん、いい加減にして!」と怒られ、家族の会話がなくなってしまいました。
高校生の子は大学受験を控えていましたし、妻は、別居するといって子ども達と家を出ていっしまいました。
毎日介護に終われ、時短であれ仕事を探す気力も体力もわきません。
母からは目が離せず、喧嘩ばかり。
怒りとか不安とかイライラで、地獄のような毎日です。
月に1回、ショートステイという宿泊できる介護施設に3日間ほど母を預けます。
その間はホッとするのですが、そこから帰ってくると、母は前よりもっと大変な状態になっていて、家での介護はますます負担が大きくなって、毎日母を怒ってしまいます。
妻はたまに手伝ってくれますが、子ども達は殆ど家に寄りつきません。
私は母をみることに、疲れて疲れて、疲れ果てました。
何度も「母の首を絞めよう」と思うようになりました。
母との意思疎通はいよいよ難しくなり、さいごはもう無理だと思って特別養護老人ホームに入れました。
正直、ホッとしました。
もう一度何か仕事を、、、と思っても、もう何をする気力もなく、自分に何かが出来る気がしません。
親の介護すら満足に出来ず、家族も犠牲にし、最後は介護から逃げてしまった、、、私にはもう何も残っていません。

26歳。希望にあふれた1人目の子育ては

私が26歳、仕事も順調で、2ヶ月後には妻との間に1人目の子供が生まれるという頃の事です。
突然、父方の祖父母の介護が始まってしまいました。
私は父を早く亡くし、祖父母の面倒は元々母が見ていましたが、その母が身体を壊して入院してしまったのです。
我が家は夫婦と子供の3人家族を想定して、2LDKマンションを購入していました。
決して広いとは言えないマンションで、祖父母と一緒に暮らすなんて、無理! でも、祖父母の兄弟も介護が必要で介護を受けている方ばかり。
父方の親戚から「これまで可愛がって面倒を見てもらったでしょう」「若くて体力もあるんだから」と言われてしまいました。
知らなかったのですが、母もそんな経緯で介護を押しつけられていたのかもしれません。
祖父は、身体は動くけれど認知症が少しあるらしい。
祖母は車椅子生活で、やっぱり認知症が少しあるらしい。
2人だけで暮らすのは危険だから、「誰かが」面倒を見なければ・・・ 「子どもが生まれるから無理だ」と言っても、 「そんなのは嫁さんに任せておけ」と言われて、聞き入れてもらえません。
そういう訳にはいかないのは当然なのですが、言葉が通じないんです。
みんな、自分たちの子育ては全て奥さんに任せっきりで、大変さなんてわからないんだと思いました。

夫婦共働き。子育てと介護の日々

悩んでいる間にも祖父母に何かあったら、、、という心配が目の前に迫ってきます。
親戚中から、祖父母に何かあれば私達親子のせいにされてしまいかねない状況に追い込まれてしまい、もう選択肢はないという感じでした。
しかし、祖父母には、確かに可愛がって貰った恩がある・・・。
実は私は、介護について元々知識も経験もありました。
しかも母が祖父母を介護するのをずっと見てきたので、自分ならできるという自信はありました。
私は妻を説得し、祖父母を引き取ることに決めました。
出産前で妻は家にいますので、昼間は祖父母を2人ともデイサービスに預け、私が仕事から帰るまでは妻にみてもらい、それ以外は私が面倒を見れば良いと考えました。
赤ん坊の誕生後は祖父母が大層喜んで、少し元気になり、すべてが順調に思えました。
ただ、生まれて間もない赤ん坊の夜泣きと祖父母の夜のトイレが重なるのは、けっこうキツいものがあります。
母もやっていたなと思い出し、今度は自分が家族を守るんだと強い気持ちを持っていました。
妻も夜中に何度も、子どものオムツを替え、祖父母のオムツを替えてくれていました。
子どもを保育園に預けられるようになると、妻も仕事に復帰しました。
2人で、仕事が終わってから交替で子どもの世話や祖父母の介護、、、という感じでした。
忙しくて、夫婦の会話はほとんどありませんが、互いに自分の役割と思って頑張ってやっていたと思います。
しばらく経つうちに、祖父母は急に怒ったり、泣いたり、様子がおかしくなってきました。
感情が激しく変わるんです。
認知症が進んでいるということのようですが、それでもまだ身体は動くので、自宅での介護を続けました。
恩のある祖父母の介護についてなので、妻も私の考えを信頼し、黙って、何も言わず従ってくれていました。

介護を終えて、夫婦も、仕事も終わる

祖父母の認知症状はすすみ、日々、体力と精神は削られましたが、私の癒しは子どもで、顔を見るだけでほっとしていました。
介護がたいへんなのは当たり前なので、毎日とにかくがんばりました。
イライラしたりすることばかりでしたが、そういう私を妻は黙って受け止めてくれました。
数年後、祖父母がいよいよ動けなくなってきたので、特別養護老人ホームへの入所を決め、やっと介護を終えました。
私は達成感でいっぱいになり、介護のプロになったような気持ちでした。
たいへんな毎日でしたが、ここまで何も言わずについて来てくれた家族とは「戦友」とも言える深い絆で繋がったと思いました。
ところが妻からつきつけられたのは「これまでの生活は耐え難かった」「あなたのやり方は間違っていた」「別れたい」という言葉、、、子どもも賛成しているというのです。
これだけ大変なことを乗り切ってきたのに、何それ?自分は正しく介護をやり切った。
妻も信じて、ついてきてくれたのではないのか!?
私はいろいろな人に向けて、家族介護の大変さや大切さ、介護のあり方の経験談を語り、自分のしてきたことを訴えることにしました。
そのとき、妻がこう言いました。
「あなたに、介護を語る資格はない。」
いったい妻は何を言っていたのでしょうか。
私達は離婚し、子どもともそれっきりです。
わけがわかりません。
そのあとは仕事も失敗ばかりでうまくいかなくなり、会社を辞めました。
なぜこうなってしまったのか、今でも分かりません。